17才のあなたから今の私へ
by 中村 仁 / 2013.07.30
FROM:中村 仁
大阪の自宅より・・・
今日はコピーの話ではありません。さきほどベッドから起きる際、懐かしい夢を見たので、
ちょっと書いてみたくなったのです。
もう来年には、ブラジルでサッカーのワールドカップが行われますよね?
残念ながら、私は2006年のワールドカップを最後に、日本サッカーに興味をなくしてしまったのですが、出場する以上頑張ってほしいです。
ブラジルか・・・懐かしいなぁー。
1997年7月、私が17才のとき、何を思ったのか、突然ブラジルのサンパウロに留学することに決めました。
日本がまだ一度もワールドカップに出場したこともないときのお話しです。
1970年ワールドカップのブラジル代表が大好きで、また、三浦知良選手のファンだったことが影響していたのでしょう。
通貨が安定しないクルゼイロから、現在も続くレアル通貨に変わってまもなくの頃、私はサンパウロの地に到着しました。
しかし、
いきなりの困難に直面・・・だって言葉がまるで通じませんもの。
中学2年からコツコツと独学で学んでいたポルトガル語がまるで通じない・・・
「食事はいつ?」
「練習はどこでするの?」
何もわかりません。「まずい。とんでもないところへ来た。他にも日本人いるって、言ってたやん」
宿舎の入り口に座り込んで困り果てていたとき玄関の鉄格子にある横断幕がかかっていました。そこにはたった4文字ですが、私でも読める文字があったのです。
『カラオケ~~~~~~~~~』
「近くに日系人がいる・・・通訳探すか!」
私はさっそく宿舎から抜け出し、日系人を探すことに。どれくらい歩いたでしょう。足が棒のようになりました。一日がかりで日系人男性(20代の方)を探しだし、事情を話したところ快く通訳を受けてくれました。結局、滞在していた間ずっと通訳してもらえることに。
彼のおじいちゃん、おばあちゃんが日本人でブラジルに移住していたんですよね。
おかげさまで、彼らの自宅で頻繁にご飯をごちそうになり、(シュラスコとか最高でしたよ)ブラジルで「古畑任三郎」(ビデオ)まで見ることができました。(笑)なんとか通訳を確保して、宿舎へ戻り次の日から練習へ。
サッカーに関してブラジル人は、日本人に厳しかったですね。まずコーチになめられてしまい、高校2年にもかかわらず中学3年のチームに入れられてしまうことに。ワールドカップに出場したことがない
国に対する扱いはこんなものです。道楽でサッカーをしていたと思われていたのでしょう。
「馬鹿にすんなや」
頭にきていたので、その試合一人で15点とって、次の日から高校生のチームに入れてもらいましたけどね。(笑)そのあとは、楽しく過ごせましたよ。サッカーを通して仲良くなれるなんて、マンガみたいなことが本当に起こる国です。
あいかわらず言葉は全く通じないのに、ブラジル人の部屋で一日中みんなで過ごしたり。外に遊びにいったり。3日後には、言葉がわからないのに、一人で遠くまで飯を食べに行ってました。
ブラジルは・・・私を
▼精神的に強くしてくれた国
▼サッカーをより楽しくさせてくれた国
▼サッカーの厳しさを教えてくれた国
▼言葉が通じなくても人生なんとかなると思わせてくれた国
▼自分が日本人であると実感させられた国
▼自分に自信を持つことが大切だとわかった国
(全員、自分が一番サッカーがうまいと思ってます)
17才のときは怖いものなしでした。あれから16年が経ち、今は・・・先のことを考え行動するか否かを決め、メリットがあるかどうかで何事も判断する。もちろんこれらには良いこともあります。慎重さも必要ですしね。
でも・・・
後先考えず行動することが許されるならば、常に挑戦をしたい。動かないより動いた方が、得られるものは大きいから。自分が思ってもなかった自分の新たな可能性に出会えるから。私はブラジルにいた際、必要に迫られて動きましたけど、今後の人生を充実したものにするため、もう一度あの時のアツい気持ちが味わいたいのかもしれません。
頑張るかな。(笑)17才の私から見て笑われないようにね。
2014年ブラジルワールドカップ、地元開催のサッカー王国は強いですよ。王国の威信にかけてやってきます。日本も気合いだけは負けないようにね。懐かしさのあまり書いてしまいました。できることなら見に行きたいですね。時はサンパウロ空港まで26時間かかったのですが、今はどうなんでしょう?